フローリング・床材の株式会社ikuta[イクタ]

コンセプトConcept

クオリティの追求

波乱の戦中・戦後を生き抜いた、
イクタ中興の祖・生田二郎。

140年以上にわたるイクタの歴史。第二次世界大戦で再びゼロからのスタートに。
木と共に歩むイクタの原点は、江戸後期の資料に記された初代・生田藤造による「戸屋 藤造」の屋号に確認できます。1870年(明治3年)に創業し、その後4代目・初二郎が建具屋を開業、1914年(大正3年)には5代目・清吉が「生田木工所」を立ち上げ木工機械による工場生産をスタート、尾張地方で盛んだった養蚕業向けの障子枠を中心に商いを広げました。
が、その興隆も1941年(昭和16年)の第二次世界大戦の勃発で後退を余儀なくされます。後継者である6代目・二郎は軍艦砲手として南洋戦線に招集、筆舌に尽くしがたい辛酸苦の果てに捕虜として収監され、終戦翌年、1946年(昭和21年)4月に焦土と化した名古屋に帰還、ゼロからのスタートがその双肩にかかります。
戦後の混乱の中、進駐軍の大工仕事を頼りに、焼けた木工機械を修理しながら、名古屋中心部で端材加工から事業を再開。内地材が入手できるようになると、住宅の縁側や廊下となる無垢材の長尺縁甲板の製造にかかります。当時は節を嫌う風潮でしたが品質の良さと加工の良さが評判となり、競合相手が不在だったことも相まって、岐阜や北陸方面まで顧客を増やしていきました。

生田二郎の先見の明とチャレンジ精神、
そして技術力が原動力に。

木製壁面パネルの製造から、フローリング専門メーカーへ。
縁甲板と技術的に近い壁面立板パネル(ビーリング)の製造にも取り組み、名古屋駅前の映画館へ納入すると、それを機に音響効果の高さが注目され、今もその多くが現存するほどの大ヒットとなりました。
やがて、学校や公共機関に広葉樹のフローリングが普及し始めると、1958年(昭和33年)には壁面立板パネルの端材で、ナラ・ブナの無垢材フローリングの製造をスタートします。
翌年社名を「生田木材工業株式会社」に変更し、1962年(昭和37年)には複合フローリングの製造に着手。1970年代(昭和40年代)に入ると、低価格フローリングが住宅床の主流となり、業界は活況を迎えました。
しかし、1980年代(昭和50年代)に入るとカーペット敷が大流行、多くの複合フローリングメーカーは苦境に立たされます。
そんな折、TVで放映された報道が事態に変化をもたらします。1984年(昭和60年)、カーペットのダニによる小児喘息の拡大がメディアで大きく取り扱われました。それをきっかけに、木のフローリングが再び注目を集め始め、現代に至る木のフローリングブームが到来しました。私たちもその過程の中で、総合建材メーカーから、徐々に、本物志向の床材専門メーカーへと移行を図ってきたのです。

ナンバー1の商品を目指す。
物作りへのこだわりが常にイクタを支えます。

本物志向の時代だからこそ受け入れられるこだわりの床材で、新たなチャレンジ。
物の無い戦後の混乱期から創意工夫を重ね、様々な技術を生み出してきた生田二郎。
例えば、実用新案を取得した100×100mmの角型ブロック刃物は、既存のブロック刃物に技術的改良を加え、接合性を高めたことで作業性が格段に向上、好評を博しました。
1987年(昭和62年)、CIの一環として社名を「株式会社イクタ」に変更、技術畑出身の石川芳文が代表取締役に就任し新しい時代を迎えます。
が、物作りに対する熱い想いは、確実にバトンタッチされました。
「いい物を作れば床材だけで認められる」、そんな信念の基に開発された銘木フロアーを初めとする高品質商品は、東京ミッドタウン内居住エリアのフローリングに選ばれたことで、広く知られるようになりました。
常に新しいナンバー1商品を求めて挑戦し続ける姿勢、物作りへの飽くなきこだわりが、連綿とイクタを支えているのです。